川原俊夫(明太子ふくや)の家系と伝説は?妻と息子・孫の現在も!

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  奇跡体験!アンビリバボー (5月31日放送分)で   博多明太子の名店ふくや の創業者・川原俊夫さんが 紹介されました。   辛子明太子といえば...

 

奇跡体験!アンビリバボー

(5月31日放送分)で

 

博多明太子の名店ふくや

の創業者・川原俊夫さんが

紹介されました。

 

辛子明太子といえば博多、

そして、

明太子の店と言えばふくや

 

今ではこれほどまで有名に

名前が知られるほどの

存在となりましたが、

 

ここまでの道のりは

大変の苦難があったようです。

 

しかし、

川原俊夫さんご本人は

苦難の道とは思っていなかった

のかもしれません。

 

苦難や困難さえも受け入れる

器量があったような気がします。

 

そんなふくやの創業者、

川原俊夫さんについて

まとめてみました。

 

川原家の家系伝説

息子の現在も

お話ししていきます。

 

 

川原俊夫さんのプロフィール

 

 

名前:川原俊夫(かわはらとしお)

 

生年月日:1913年1月25日

 

出身地:釜山市

 

学歴:釜山公立中学校

 

勤務先:南満州電気株式会社

 

没年:1980年7月17日 (享年67歳)

 

 

川原俊夫さんは釜山で生まれ

釜山で育ちます。

 

中学校までは釜山ですが

卒業後に満州の電力会社

南満州電気株式会社に入社し

移住することになります。

 

そこで妻となる

田中千鶴子さんと結婚。

 

その後、

1944年に陸軍に召集され

伊良部島に配属されるも

最後は宮古島で終戦を迎えます。

 

そうして終戦後は、

故郷の福岡に引き揚げることに

なったわけです。

 

川原俊夫さんにとっては

初めて見る故郷の地だったわけですね。

 

どんな思いで敗戦後の日本を

見られていたのか、

想像することも出来ません。

 

恐らく何をやって食べていくのか

最初は途方に暮れたのでは

ないかと思います。

 

しかし、ここからが

辛子明太子ふくやの伝説を

作っていくことになるのです。

 

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川原家の家系と伝説の成功ストーリー

 

川原家は元々は

福岡県朝倉郡三輪村(今の筑前町)

の出身で明治後期に釜山に渡り、

 

川原回漕店という商店を開いて

海運業と海産物・缶詰の販売を

行っていたということです。

 

そこで、父親である川原宇次郎

母親のトヨの次男として誕生したのが

川原俊夫さんです。

 

次男ですから上にお兄さんが

いらっしゃったのですね。

 

釜山では市場で明太子

売られていて

そのころから興味を持ったそうです。

 

川原家も川原回漕店だけでなく

後に富久屋という食料品店も

経営していたそうですが、

 

その店の名が

後のふくやになったのですね。

 

敗戦後、

日本に引き揚げた川原一家は

 

朝鮮時代の財産を元手に

海産物を販売するお店を持ち

 

中洲市場に移住してから

ふくやと命名して

食料品販売の卸を始めます。

 

ここで商品の卸以外に

オリジナル商品を作ろうとしたのが

明太子だったわけです。

 

なぜ明太子だったのか?

 

それは妻である千鶴子さんとの

満州時代の懐かしい思い出が

あったからだそうです。

 

本場韓国の美味しい明太子の味を

妻のために再現させたい・・・。

 

その想いだけで10年の歳月をかけ

ようやく思い通りの味を

再現させることが出来たのです。

 

これを愛の力と言わずして

何といえば良いのでしょうか?

 

本当に素晴らしい夫婦愛です。

 

 

ところが、

美味しいはずの明太子が

最初は全く売れなかったそうです。

 

それでもご近所の人たちの口から

地元の小料理屋で出されるようになり

 

やがてサラリーマンを通じて

県外にも広がって、

 

1965年には大阪の政財界で

大評判となったそうです。

 

それから、

1975年の山陽新幹線の開通で

一気に全国に広がったのです。

 

こうして綴っていくと

絵に描いたような成功ストーリー

のように思えますが、

 

決してそんな生易しいものでは

ないでしょう。

 

思うような味が作れず

もがいていた10年もの歳月

 

ようやく思った味が完成した

と思いきや、

まったく売れない日々が続く、、、

 

そんな苦難の道を

乗り越えてきたのです。

 

きっと何度も挫折しかけたことが

あったはずです。

 

それでも諦めずにやり続けた

からこそ摑んだ成功でしょう。

 

それがあったからこそ、

今のふくやがあるのです。

 

成功するためには

どんな障害も乗り越える勇気と

行動力が必要であることを

教えられた気がします。

 

 

川原俊夫さんの妻や息子・孫の現在

 

 

今では辛子明太子で全国に

知られたふくやですが、

 

今は亡き川原俊夫さんのご家族は

どうされているのでしょうか?

 

 

まずは妻だった千鶴子さん。

 

はっきりは分かりませんが

どうやら亡くなられたようです。

 

満州時代には全朝鮮全土の

100m走女子最速記録を

樹立したというのですから、

 

身体は健康であったと

推測されます。

 

夫の俊夫さんが亡くなられた後は

社長を引き継いで

ふくやを守ったようですね。

 

 

俊夫さんと千鶴子さんとの間には

2人の息子さんがいらっしゃいます。

 

ご長男は、川原健さん。

 

1943年に満州で生まれ、

慶応義塾大学卒業後は

福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行)

に勤めています。

 

しかし、

父親の俊夫さんの体調不良を

きっかけにふくやを手伝います。

 

1984年 専務に就任

1994年 社長に就任

1997年 会長に就任

 

現在は、相談役として

ふくやを支えていらっしゃいます。

 

 

次男は、川原正孝さん。

 

1950年3月18日

福岡県福岡市生まれです。

 

甲南大学卒業後は

兄である健さんの口添えで

福岡相互銀行に入行。

 

やはり父親の俊夫さんの

体調不良をきっかけに

ふくやを手伝うことになります。

 

正孝さんは兄の健さんより

いち早くふくやに入りますが、

 

素晴らしい手腕を発揮し、

兄が入社した1989年には

業績を3倍の60億円にも

伸ばしていたそうです。

 

1984年 常務に就任

1994年 副社長に就任

1997年 社長に就任

 

兄と同時期に昇進し、

兄を下から支えたのですね。

 

兄弟で争うこともなく

ここにも素晴らしい兄弟愛を

感じることができます。

 

これも父親である俊夫さんの

教えや背中を見て育った環境が

そうさせているのでしょう。

 

 

そして現在は、

社長は俊夫さんのお孫さんの

川原武浩さん

 

武浩さんは長男の川原健さんの

息子さんです。

 

國學院大學を卒業後、

2004年にふくやに入社。

 

取締役統括本部長、

副社長を経て

2017年、社長に就任しました。

 

現在46歳という若さですから

ふくやも安泰ですね。

 

新商品も次々に開発し

売り上げを伸ばしているようです。

 

 

ふくや公式サイト 

http://www.fukuya.com/

 

 

まとめ

 

ふくやの創業者・川原俊夫さん

の最大の功績は、

 

明太子産業を

博多に根付かせたことだと

言われています。

 

俊夫さんは

辛子明太子の製法を

惜しげもなく同業者に

教えていたそうです。

 

明太子のことに限らず

人の役に立つことは何でも

進んでされたとも言われています。

 

自身の蓄財には関心が無く

寄付を好んでされていた

 

ということからも

いかに人のために尽力された方か

ということが分かります。

 

自らの欲よりも

他人の幸せを考え与え続けた

川原俊夫さんは、

 

博多だけでなく日本にとっても

伝説の人だと思います。

 

 

最後まで読んでいただき

ありがとうございました!

 

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